2009年01月01日

闇草子







『夏祭の夜。僕は神社の池の側で従兄があの人と歩いているのを見た。従兄はよく女の人を連れているけど、他の人とは違うとてもきれいな人だった。浴衣に包まれた背はすらっとしていたけれどどこに骨があるかと思うほどに繊細で弱弱しく見えた。
 頬が熱くなって熱でも出たのかと思って家に戻った。
 そうしていると電話が鳴った。従兄さんからだった
「健祐か。母さんそっちに行ってない?」
「あのさ。さっきの人誰?」
「ああ見てたのか。きれいだろ惚れたか?」
「え、そんなんじゃないよ」
 その答えに不安を感じたのか兄さんは強い言葉で言った。
「あの女は近づかない方がいいぞ。もし他の人間に自分の事を話したら命を
奪うなんて泣きながら言うしな」
 電話が切れた。それから暫くして電話が鳴った。
「あなたも言う?」』



 宇織郁守は目を覚ました。
 最初に感じたのは体中がすえた海水で覆われたような不快感だった。
 汗をかいていることに気づき、現実を認めそれが夢であった事に安堵する。悪夢の数は人それぞれなのに体の反応は誰もが変わらない。
 いつもと同じ悪夢。
 自分が誰で何なのか分からないまま過ごす。そして誰かが自分を見ている。それは自分を屈服させようとする意志だ。自分は削られ、残るのは抵抗できることもなく食い荒らされたような自分の心だけだった。
 最後に見える彼女の姿だけが現在と連続している。
 物音がした。
 郁守がゆっくり振り返るとそこには誰もおらず気のせいだと思った時、
「わ」
 郁守は少なからず声を上げた。
 振り返れば死角に立っていたらしい晴着姿の彼女が立っていた。
「王子」
「王子って呼ばんでくれるかな」
 至王子橘花はそういって少しばかり頬を膨らませた。
「橘花」
 橘花は大げさに肩をすくめる。
「それで許したげる。年下に名前を呼ばれるのはなんだかって気いするけど・・・ああ。また悪い夢?」
「ああ」
「そないなに髪伸ばしておるから変な夢見るんやないの。髪は変なものを呼ぶって言うしな」
 郁守は男にしては長い束ねた自分の髪を見た。背の半ばまである髪は男にしては確かに長い。
「でも昔からこうだからね」
 いってからどれほど昔か考えてみたが思い出せなかった。
 にこにことしている橘花に郁守は目を細めた。
「どうしたの今日は?。随分めかしこんでいるけど」
「晴姿披露」
 橘花はくるっと回って見せた。そうやって見せたくなるのも分かる鮮やかな振袖だった。よく見れば髪もいつもと違いしっかりと結ってある。
 彼女がこいさんと呼ばれるような商家のお嬢さんなのを郁守は思い出した。
「お正月だよ。こないなトコにおらへんで出かけよう」
 優しい声で橘花はいう。
 少しばかり嫌な予感を覚えて郁守は逃げ場を探した。しかし、この部屋の出入り口は橘花の入ってきた扉だけだ。
 晴着だっていうのによく見れば小脇にしっかりと小さめのスケッチブックが握られている。
「どこにいくの?」
「決まってるやないの写生写生」
 郁守は小さくため息をついた。
 とはいっても郁守には断ることはできない。郁守は橘花に飼われているようなものだ。今すんでいるこの屋敷も橘花の家の所有している土地の一角にある。そこに連れて来て住まわさしてもらっているのだから文句などいえない。

 街は晴れ晴れとしていた。
 正月ということからいつもなら夜しかやらないようなカラーの番組も街灯テレビから流れてくる。   家々には門松や、正月飾りが飾られ、子供たちも駆け回っている。歩いていく人々の服も立場こそあれ、各々の晴れ姿で町全体が明るく縁取られている。 
 それでも橘花ほどの晴れ姿はいないようで、若い男たちの中には無遠慮に視線を投げかけてくるものもいる。
 それが郁守には不快でもあり、嬉しくもある。
「どうしたん。にやにやして」
「いや。別に」
 気づかれないようにできるだけ無愛想に郁守は答える。
 歩いているうちに本町通りに入った、
 本町通りは大神宮から伸びる商店街で、多くの人手が出ていた。もともと船橋は門前町であり、この商店街にも多くの店で賑わっている。 
「正月なのに店にいなくていいの。橘花の家は商家だろ。初売りとか忙しくないの?」
 いいながらばかな事をいっていると思う。せっかくの楽しい時間がおじゃんになってしまうかもしれないのに。
「もう三日も過ぎたしな。兄はんも姉はんもいるしね。何、そない絵を描きにいくの嫌?」
「絵は嫌いじゃないよ。ただ、君のはね」
「そりゃ妖怪を描きたいなんていうのはどうかと思う。でもな、鳥山石燕とか、竹原春泉、河鍋暁斎みんなすばらしいものよ。近所だし、全生庵の幽霊画とかくらい見に行ってへんの?」
「あれは芸術でしょ。問題は君が写実主義ってことだ。そういう人たちがみんな実物を描いたと思っているわけじゃないよね」
「写実主義っていうか、ピカソのデッサン見たことある? あの象徴画の大家だって、若い頃は地道にデッサンを重ね、その結果たどり着いたんやから」
「そうかもしれないけど、妖怪とか幽霊とか見えないものだろ?」
「そないなことないよ。現に郁守だって見えとるやない」
 一瞬だまって郁守は答えた。郁守にも霊が見える。
「確かに見えてる」
「でしょ。ウチも見えとる」
 橘花は笑った。
 冬なのに向日葵を思い出させるような陽性の暖かな笑顔。
 商店街の果てに大神宮の鳥居が見えてきた。
「なあ、初詣いった?」
「いや。ずっとぼうっとしていたから」
「せっかくだから初詣いこうか」
「そうだね」
 
 既に正月も三日を過ぎていると神社は空いていたが、それでも参道回りにはたくさんの店が出ている。
 お好み焼きや、あんず飴、やきそば、タコヤキといった、おいしそうな匂いの中を中を歩いていくと、橘花は立ち止まった。
「バナナないな。う〜ん、何か買ってあげようか」
 すました顔で橘花はいった。
「いいよ。そんなに子供じゃない」
「毎日毎晩壱年中付き合ってくれるお礼って思ったのに」
「いいよ。それにそんな付き合ってないし」
 橘花の目が境内の中をうろうろと動いた。
「トイレならどうぞ」
 橘花は黙っていってしまい郁守は溜息をついた。
「どうしてこう馬鹿なんだろう」
 橘花の機嫌をとろうと露店の一件に近づいた。綿飴が目に付いた。割り箸が見る見るうちに大きな綿飴になっていくのは見ていて気持ちがいい。
 込んでいるだろうし、橘花は振袖だし時間がかかるだろう。そう思って郁守は声をかけた。
「すいません一つ」
 こんでいるせいか郁守の声は無視された。
「すいません」
 どうも女の子が多いようで、後回しにされているようだった。出せる限りの大声を出そうとすると、
「お待たせ・・・なに、綿飴食べる?」
「いや、別に」
「そうならええけど」
「早かったね」
「勘違いしとるみたいやけど、晴着を着たら家に帰るまでそういうのはせんの」
「じゃあ、どこに?」
「分からん、場所があったから聞いてきたの。いきましょ」
 さっさと橘花は歩き出す。
「どこにいくの?」
「この時期しか見れへんものがあるの」

 森の中というのにどこかで潮の臭いがした。
 橘花は黙って緑の中を進んでいく。
 沈黙している橘花は本当にきれいだと郁守は思う。男前というと語弊があるかもしれないが、それは凛としていて美しい。
 郁守は考えるのをやめた。
 氛といわれる類の気がある。それは気を整か負と考えたときに負に属するものだ。いわばそれは妖気や邪気ともいえるものだ。
 ここは神域というのにそれが在るというのもおかしなことだ。
「そっか。ウチもよくしりまへん。でも、ここが特別なのは分かるよね」
 橘花は森の一点を見た。そこには何か塔のような六角形の建物が見えている。
「あれ分かる?」
 じっくりと見るとその先端はガラスの大きな窓が見え、中には小さいながらランプが見える。
「灯明台というの。あそこが江戸時代灯台だったってすごいよな」
 灯明台は六角形の塔といった趣だった。
 十分珍しいものだが、神社にそんなものがあるのを誰も知らない様子で回りに人影はない。
 郁守は灯明台を見上げた。
 恐らく三階建てであるその建物は一・二階は和風の作りで、三階は洋風になっている。ただし、この辺りはもともと地面が高いので十分海からみえるだろう。
「さあいきましょう。お正月の間だけ公開されてるのよ」
 中に入ると中は畳敷きだった。その端に急な階段が作られている。
「結構天井低いんだね」
 橘花はそういって二階に上がっていく。晴着の重さなど思いもしらないように足取りは軽い。と思ったらふらついた。
郁守の視界が暗転したと思うと本当に眼前に橘花の顔があった。
「あ」
 晴着込みでも意外と軽い体が郁守の手に納まっている。
 動悸が激しくなるのが郁守には分かった。
 長く短い時間が過ぎた。
「ごめんごめん。今日は辞めとこう」
 やや乱れた服を調えながら橘花は言った。


 着いたのは一件の商家だった。
「煙草・お茶扱い 北川煙草店」
 橘花の姿に気づいた初老の店員が店から出てきて頭を下げる。
「九十九屋のお嬢さんですね。今日は何をお探しで。茶箱の方はもう売り切れでして」
「いえ。今日は弘一さんに」
 店員は目を細め、
「ああ、どうぞ」
 店の脇には小道が伸びている。表からの視界を阻むような大きな夏みかんの樹の下をくぐると一件の離れがある。
「こんにちは」
 橘花が声を上げても答える声はなかった。
「あがります」
 そういって扉に手をかける橘花を止め、郁守は先に立って中に入った。
 部屋は冷たい空気が満ちていた。
 薄暗い中で部屋は死んでいた。これだけの寒さなのに部屋には火の気が感じられない。
「いないんじゃないの」
 郁守は軽口を叩きながら襖を開いた。離れの部屋の中には誰の姿もない。
「王子、やはり誰もい・・」
 橘花の声が響いた。郁守は離れを飛び出した。
 下を向いて笑いを堪えている橘花の姿があった。その脇には青年の姿があった。制服を見つけた顔は美男といえるくらい整っている。
「どうしたの?」
 弘一を睨みながらいう郁守に橘花は慌てて手を振る。
「なんでもないの。弘一はん裏手にいたんだって。急に声かけられたから叫んでしもうた」
 郁守は自分を冷めた目で見る弘一に気づいた。
「ねえ、ちょっと雰囲気悪いよ」
 弘一はあっさりと頭を下げた。
「すいません。不愉快な気分にさせてしまったようで」
「ほら、郁くんも」
 郁守は小さく頭を下げた。

 部屋の中はこざっぱりとしていた。
「自分が見たものを聞きたいというんですね。でもね、それが本当に橘花さんが言っているようなものかは分からないんですよ」
「そうですか? 私には随分そういうものに思えるんですけど」
「それに」
「それに? なんですか」
「橘花さんの方がおきれいですよ」
「はあ」
 橘花は困ったように目を伏せた。
「それよりその話だよ」
 郁守がいうと橘花は照れて笑い、
「そうですみたというあやかしの事をお聞きしたいんです」
「そのそれが本物かどうかは分かりません。確かに友人が沼で変死したのは事実ですが」
「その時の話を聞かせてもらえませんか?」 
 
 郁守は離れの外に出ていた。
「ねえ。どうしたん?」
 橘花が外に追ってくる。
「ああ。何もないようだし、僕がいかないほうが彼も口を開きやすそうだから」
 理路整然と答える郁守に橘花は声を上げた。
「そんなわがまま言わないの」
 橘花はそういって郁守の反応を待ったが何も言わないないのを見て離れに戻っていった。
「帰ろうかな」
 郁守は歩き出した。
 歩きながら何かいらついたように足を速める。
 二人が中よさそうだったのも何かむっとしたし、ああして橘花が気取ってしゃべっているのも気に入らない。とにかく気に入らなかっだ。
 気づけば郁守の身体はもう家の前だった。
 一度走って落ち着いてしまえば、自分の馬鹿なことも分かってくる。
 黙って帰ってしまったことや態度。それがひど稚気めいたといことも分かってきている。
「明日あやまろう」
 
 郁守は立っていた。
 ああ、夢だと思う。
 夢だと分かっていながらこうして見ていられるのは珍しい。夢と分かれば目を開けてしまうのが常だったからだ。
 そこは無数の墓石が転がり、暗転したような世界。
 そうだ。
 郁守はここに転がっていた。どこからか運び込まれてずっとずっと。
 昔はもっと山の中にいた。霊気に満ちた山中で気づけば存在していた。そして次に気づいた時は山ではなくここにいた。
 座り込んでいた僕に彼女は気づいた。
「君誰?」
「王子」
 ずっと前に与えられた名前を名乗った。彼女は笑った。
「どうして名前知ってるの。でもその渾名あまり好きやない。君だけ知っててウチが知らんのは不公平。名前を教えて」
 郁守は目を開けた。
「名前は・・・ああ、うちは至王子橘花」
 転がっている様々な石に彫られた名前。それが自分のもののような気がした。
「宇織郁守」
「いつからここにいるの?」
 聞かれてもぼんやりとして定かな形はとれない。
「さあ」
「いくところある?」
 それも何もない。答えないままでいると、
「じゃあ一緒においで。空いている家があるからここよりはええと思うよ」
 今までは見えなかったところまで見えた。どうしてこんなものが自分にとり、悪夢と認識されるのかが不思議だった。

 橘花は翌日、顔を見せなかった。
 前は毎日のように顔を見せていた事を考えると昨日してしまった事が随分と悔やまれた。
結局そのまま数日が過ぎた。
「ああ、もう」
 外に出ようと思った。
 こうして来るか来ないか分からない橘花を待っていることにいらつき始めていた。
 そうしているとびっくりする。
「助けられてたんだ」
 そんなものではない強い執着。
「やきもちか」
 どうしてあんなにいらいらしたか今なら分かる。郁守は嫉妬していた。弘一に。
「まだだいじょうぶだ」
 自分から外にいこうと思うのは随分久しぶりだった。
 あれだけお正月の風情を残していた町はすっかり日常に戻っていた。
 商店街を歩きながらついつち橘花の家を探しかけて苦笑する。商店街に家は在ること知っていても細かな場所までは知らなかった。
 それでも家でくすぶっているよりこうして行動できた方がましだった。
 橘花は自分より3つ年上というから16だ。早い人間なら嫁いでもおかしくない年だ。あと何年結婚しないでいてくれるだろう。
 もし20代まで結婚しないでくれればそんなにおかしくなくなる。自分が23で橘花は26ならどうだろうか?。
商家の娘がいつまでも結婚させられずに家に置いておかれることはまずない。まして橘花のような器量よしなら。
 結局、ふらふらしていると気づけば大神宮の前だった。
「ダメだ戻ろう」
 そう思って帰ろうとすると視界の端に映ったのは、制服姿で随分と浮き足立っている橘花と、弘一の姿だった。手にはスケッチブックやイーゼルなどいろいろなものがもたれている。
 慌てて鳥居の影に姿を隠す。
 郁守の姿に気づくことなく二人の姿は消えていった。
「遅かったのかな」

 みっともないこと。
 分かっていても追いかけてしまった。
もし会ったら何ていうのかどうするのかさっぱりなのにそれでも後を追っていた。
 虫の知らせとも本能ともいって説明するのは簡単だか、郁守の中にあるのはいかなくてはいけないという感情だけだった。 
 歩いていると不思議なことに気づく。
 ああ、距離が。
 前来た時くらいには歩いているはずなのにまったく果てが見えないのはどういうことだろう?
 結界。
 そんな言葉を思い出して、立ち止まる。
 どうしてそんな事を知っているのか?
 そんな考えは続かなかった。ただ、こうなった時の対処の仕方は覚えていた。
 空を見て目印になるものを探す。目印になるのは時によって様々だ。なぜか山上に放り出された大きな岩であったり、幾何学的に組まれた文様であったり、ただの石板であったり。
「あった」
 灯明台が観えた。それを目印に走っていく。
「こっちだ」
 走り出した郁守の前に知っている道が現れた。それを示すように声が聞こえた。
 それは紛れもなく橘花の声だった。

 池は静かだった。
 初詣の客の姿が見える事もないし、喧騒も伝わってこない。
 鎮守の森の奥にあるのだからそれも当然かもしれない。冬の光はこの辺りを照らすには力なく、陰鬱な雰囲気があった。
 多くの樹がはえていた。その中にもまばらながら朽ちた木も少なからず見える。
 松ばかりが多い森の樹はどれも多くの時間を孕んでいるように思える。数多の戦火にもここは燃やされることはなく、長い時間をすごしたのだろう。。
 普通池の周りは苔なんかはえているものだけど、そこには何もない。水はにごっているのに不思議なことだ。
 その側には倒れたイーゼルと描きかけの絵。
 走り出した郁守の前には何かを求めるように幹に指をうずめてうめく、橘花だった。それを弘一は何の感慨もなく見つめている。
 駆け寄った郁守に橘花は本当に困ったような顔をして笑った。
「ごめんなさい」
「どうしたの? 橘花は僕に謝ることなんかしてないだろ」
「そうなのかな」
 橘花がうめき声を上げた。
「おまえかそんな事をしたのは」
 しかし弘一は何ら反応はない。郁守が見えていないように。
「おい」
 殴りかかると弘一の身体は簡単に転がった。まるでかわしもしない弘一は倒れてから不思議そうに周りを見ている。
「おい、きけよ」
 橘花が動かなくなる。
「君は誰だ?」
「ああ? 彼女の知り合いだ」
 こんな時なのに、過日尋ねたとき本当に自分が視界に入ってなかったと分かると腹が立ってくる。
「なら遅かったようだね。彼女はもう死ぬよ。してはいけないことをしようとしたからね」
「してはならないこと?」
「絵を描くことだよ。彼女たちは姿をさらされるのが苦手だそうでね。でも、彼女はそれをしようとした。これは罰だよ」
「何が罰だ」
「お前も後を追え」
 弘一はイーゼルで郁守に殴りかかった。
 慌てて防いだ腕にぶつかりイーゼルは折れていた。弘一は驚いたように自分の手を見ている。砕けたイーゼルの破片が手にめり込んでいる。
 叫び散らす弘一を殴りつける。
「おい、彼女に何をしたかしらないがさっさと治せ。毒か?、呪いか?、さっさと戻せよ」
 そのままの勢いで弘一の胸倉を掴み引き上げる。
「お前も彼女の仲間なのか」
「はあ?」
 沼で音が聞こえた。
 ぴしゃっと。
「ああ」
 水面が湧き上がったように見えるとそこには美しい女が立っていた。
「お前誰だ?」
 この寒い中だというのに単の着物。青めいた髪が人でないのを見せている。そして何より彼女が人でないのを感じさせるのは水の上に浮いている。
「助けてくれ」
 女は笑みを浮かべた。
 美しいがいやなものを感じる笑顔。この笑みの意味は。
 女の姿が一瞬霞んで巨大な歪に転じた。弘一の叫びが聞こえ、水音がしたと思うと、その姿は消えて、女は同じように立っている。
「擬態か」
 ただ男を引きつめるためだけの美しい姿だ。
「弱い魂はうまくはない。そうは思いませんか王子」
「どうしてその名で呼ぶ。それは彼女の名だろ」
 女は不思議そうに首を傾げ、喉で笑った。
「そう王子ともあろうものが、実体を失っていたのはそういうわけでしたのね。では、むしろ礼を言ってもらわなければなりませんね。あなたを解放したのは私の餌だったのですから」
「開放? ずっと僕はこのままだ」 
「ああ、自分が何か分からなくなってしまったのですね。あなたほどの方でなければそうして意思を持ったまま在る事も難しかったでしょう。あなたは封じられていたのですから」
「封じられた? 僕が」
「我々のような存在は固定されるとその力を失います。石や物、名。中でも絵を描かれるのは封じられる事に他なりませんから」
 郁守は悪夢を思った。
 
 悪夢の意味。
 自分が自分でなくなるのは、橘花が描いた絵の中に自分が在ったのだろう。認識していれば、自分が自分以外の何かになるなど悪夢以外の何ものでもない。
 そして今までの事。
 神社で物を買おうとしても誰も相手にしてくれなかった事。あれは力を失った自分は人が認識できる実体を備え切れなかったせいだろう。
 人々の橘花に向ける視線。あれは美しいのではなく、独り言をして歩く女に対する好奇の目だったのかもしれない。
 何より滑稽なのは自分だった。自分がなんであるのかも忘れ、人であるように夢見ていたもの。全ては錯覚だったのだから。
「分かりましたか王子」
「分かった。あれを傷つけているのはお前の呪だな」
「はい。あの女は多くのあやかしを描きその存在をゆがませます。災いとなるでしょう」
「そうかもしれないな」
 郁守は女に近づいた。
「ただ、あれは僕のものだ。さっさと呪を解け」
「何をおっしゃいますか王子」
 女の顔に侮蔑が浮かぶ。
「心奪われたものは既に同胞ではありません。くくられた式にも劣る」
 女の体がゆがんだ。そして叩き伏せられたのは巨大な口だった。郁守の視界いっぱいに肉の塊が広がる。
「せめて同属の情け。糧となれ」

 女は自分の中に引き入れた郁守を思った。
 強い魂はより強い力を与える。封じられているといえ、王子だ。郁守の魂は強烈な力を自分に与えることだろう。
 だが、それが誤解だと気づいたのはすぐだ。
「すまない」
 池の水が少しづつ凍り付いていく。その果てに見えたのは終末だった。
 凍りついた池を砕いて郁守が現れる。先ほどまでよりわずかに成長した姿は今までにない肉の重さを感じさせた。
「君の魂はまずくはなかったよ」
 郁守は女に近づいていく。
「八岐の昔から人の女に執着したものの末を思い出すがいい」
 女は背を向けた。
「分かっているよ。でも僕らは空即是色。自分の心を偽り、生きていくことはできない」
 郁守の髪が解けていた。髪は数多の蛇のように女の身体を包み込んでいく。髪の海の中で女は暴れる。だが、暴れれれば暴れるほどその姿は小さくなりやがて消えた。
「さよなら」
 
「このままならずっと独り占めしてられるのに」
 眠っている橘花を見ながら郁守は呟いた。
 霧が出始めた夜の森の中で、微かな灯明台の光で眠っている橘花は美しかったけれど、それは器物の美しさで、彼女が目覚め、笑っている顔には及ばない。
 橘花は目を覚ました。
 周りを見回して自分の身体を確認している。
「あれ郁守くんがいて」
「ああ、いるよ」
「わあ、びっくりした。ウチ助かったんや・・・助けてくれたの・・・助けてくれたの?」
「まあね」
 そういって郁守は笑った。こうやって生き生きしている橘花を見ると本当に嬉しくなってくる。
 でもここまでだった。橘花を樹によりかけ郁守は離れた。
「あのさ、僕もう行くよ」
 目を合わせずに顔を背けた。
「どうして?」
「君は知っていたんだよね。僕が人間じゃないのを」
 橘花は顔を下に向けた。
「絵え、描いとってな。最初ぼんやりとした男の子って思って書いていたら形になって郁守くんになったん。でも、郁守くんが心の中で思い浮かべただけの友達なんて思うてへん」
 郁守は優しく笑った。
「橘花が眠っている間思い出してた。『郁守だって見えているじゃない』っていったけど、あれは妖が見えるって事じゃなくって、僕が見えてるって事だったんだね」
 この件がなくて、自分の心に気づく前に本地を思い出していることができればきっとこんな思いはしなかっのだろう。罪があるとすればぬるま湯に浸りきっていた自分だ。
「どうしてもっと早く気づけなかったんだろうね本当に」
 郁守は背中を向けた。笑っていられなかった。もう泣きそうだった。
 いっそ弘一がされていたように橘花をしてしまおうかとも思った。人間の意志なんて簡単に陵辱できる弱いものに過ぎない。でも、簡単なそれは彼女を永遠に失うことだから。
「郁守くん、待って。何でそんな事いうん? だって今までと何も変わってないよ」
 橘花は言った。自分が変わらなければ他人も変わらないと信じている心。
「変わってしまったんだ。僕はもう悪夢も見ないだろうけど、夢も見れないだろうから」
 だって僕の夢は君と同じ時間を過ごす事だったから。
「元気でね」
「待って」
 灯明台の明かりが消え、月明かりに移った時、郁守の姿はもうない。
「郁守くん?」
 ただ、風がしなやかに橘花の髪を戯れていった。



 

 
posted by 作者 at 19:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 短編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/113099143

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。