2009年04月26日

真珠の柩 横書き

 六年生になる春休み。僕の趣味は海での漂着物の採集だった。
 住んでいる桜市の海は、江戸時代から二十世紀にかけて遠浅の海を埋め立てられ続けてきた。しかし、二十一世紀に入って、埋め立ての方向が変わってきていた。今までのコンビナートを造るような開発とは違う、親しめる海を取り戻す故郷創生プロジェクト。その一番の目玉は人工海岸だった。
 海岸には砂浜が造られ、波の強さを制御する為に沖に堤防が築かれた。そして海の生き物が、定着するまで出入りは制限されていた。道路には入れないようにバリケードが設けられていたが、子供一人ならいくらでも抜け道を見つけることができた。入ってしまえば、工事が一段落した区域は、まだ工事用のプレハブがあったが、人の姿はなく、誰からも咎められる事はなかった。
 だから、天気さえ悪くなければ、放課後になれば海に行くことになった。
 海水は黒くにごっていて美しいとは言えず、砂浜の砂は黒かったが、気にはならなかった。
 海で拾ったものたちは拾ってきた食器棚に詰めて陳列しておいた。
 どうしてそんな事に熱中したのか。
 孤独になりたかったからだ。
 両親がいないことや、生活保護を受けていること。そうした事が原因であったのか、クラスの中でいじめにあっていた。加えて、学校の中は、もともと住んでいるグループと、新興の住宅地やマンションに住むグループで割れていた。どちらにも入れない自分に対して、いじめは執拗だった。そして得た逃げ場が海だった。
 その日の見つけたものは大きかった。
 船にくくりつけて使われるガラスの浮き球だった。荒い縄でガラスの球を縛り上げたもので、もともと海苔の養殖が行われていたこの海で使われていたものだ。今ではオレンジや黄色のプラスチックのものに変わり、ほとんど見るとがないものだ。
 問題は側に誰かがいることだった。浮き球に腰掛け、海を見ているのだ。
 三十分程様子をうかがっていたが、結局、立ち去る様子もないので、近づいていった。
 同じ年頃の女子だった。見慣れない学校の制服。女子にしては日焼けした肌が黒く、話すと見える歯が印象に残る。
「ずっと見てたでしょ」
 ばれていたというのが分かり、恥ずかしくて下を向いたまま答えた。
「うん」
「人の目はまっすぐ見たほうがいいよ」
 言われるままに見ると、女の子の目は猫を思わすつり目だった。その怒っているような目で、まっすぐにこっちを見てくる。こうしたことができるのは、スポーツや勉強ができたりするかっこいい子の目だ。
「見てたけど、君じゃないよ」
 浮き球を指さすと女子は少しばかり不機嫌そうな顔をした。
「一人で何してんの」
 笑われるかとも思ったが、まっすぐに見られているせいで嘘をつけばばれそうで、小さな声でいった。
「漂着物集め」
「面白そうだね。今日の収穫はなに?」
「ないよ。あるとしてもそれくらい」
 もう一度、浮き球を指差した。女子は一気に興味を失ったようで、小さくため息をついた。
「これは漂流したものじゃないよ。私が持ってきたんだけど」
 確かにそういわれて見るとその浮き球は砂浜に置かれたせいで砂がついているが、漂着物らしく海草や海に浮かんでいたものならある緑色の汚れはついていない。浮き球は昔から漁師だった家は、今でも捨てずにおいてあるというからこれもきっとそれなのだろう。
「何かないの」
 つまなさそうにいってから、女子は笑った。
「その様子だとここに忍びこんで集めているのも初めてじゃないんでしょ。今まで集めたもの見せて。もしその中にいいのあったら取り替えてあげる」
「本当に」
「ちょうど海に捨てようと思っていたから。海から流れてきた物となら、取り替えるにしても釣り合いがとれるんじゃないかな」

 彼女を案内したのは一見すれば海風に晒された倉庫。そこが僕の家だった。もともと近くで父親が工場をしていたのだが、不景気で工場も自宅も失った。そして父親が命も手放し残ったのはこの倉庫だけだった。
 姉と二人で、守衛や夜勤の人間が過ごすために用意されていた宿直室で生活をしている。
 宿直室は八畳程で狭いが、それ以外の場所は、倉庫だったせいでスペースはたくさんある。その一角に拾ってきたカーテンで部屋のように区切って、倉庫に置き去りになっていた食器棚を置いて、漂着物を飾っていた。
 大小さまざまな椰子の実。オウムガイの殻。人の顔よりも大きい一枚貝。読めない文字の書かれた、黄色や緑、青のガラスの瓶。海で流されたせいで丸くなってしまった溶岩。綺麗に磨かれて光沢を放つ流木。
 しかし、今日持ってきた浮き球がずば抜けているように思えた。いつもなら十分とかからない道を三十分あまりかけて運んできた苦労分が上乗せされているかもしれない。
 暫くコレクションを眺めていると、彼女を放っておいた事に気づいた。あきれられると思ったが何かしきりに頷いている。
「すごいたくさんあるね」
「いつか全部ここを埋め尽くしたいんだ」
 彼女は棚に。くっつきそうになるほど顔を近づけて、宝物に手を触れたい様子だった。
「触ってもいいよ」
「ありがとう」
 彼女が最初に興味を持ったのはオウムガイだった。オウムガイは、殻はそれほど大きくはないが光沢がきれで、拾った物の中でも一番よいと思っている物だ。これなら浮き球と取り替えても見劣りはしないように思えた。
「すごいね。これなにアンモナイト」
 はしゃぐ女子に少し嬉しくなった。
「それはオウムガイっていうんだ」
「ふ〜ん」
 彼女はオウムガイを持ち上げた。
「ほしいの」
「耳近づけると波の音がするかなって」
「多分しないよ。少し欠けているんだ」
「それは残念」
 彼女はいうとオウムガイを食器棚に戻した。
「この辺りにはこんな大きい貝がいるんだ。びっくりだ。これから真珠ってとれるの?」
 真顔でいう女子に少し笑いそうになったがこらえて口を開いた。
「いるのはもっと南の海だよ。オウムガイの殻はとても軽いから、死んでしまうと沈まないでずっと流れてくるんだって。漂着してくるから最初はフジツボがたくさんついていて大変だった。その時に欠けちゃったんだよ」
「ああ、そうなんだ。そうだよね。そんなに大きいのいるわけないよね。真珠はないの」
「ないよ」
「でもマンボウあるくらいだからきれいなのありそうな気がするけど」
「マンボウはいないよ」
「マンボウガイっていうんだよ」
 大きなホタテのような貝を見せながら言う。
「でも、これだけ広いといいねえ。秘密基地なんでしょ」
「ここに住んでるんだ」
 彼女は倉庫の中を見渡しながらいった。
「いいね。雨の日は中で遊べるし、こうしてものもたくさん置けるし。うちなんて、家の中にちょっと汚れた靴で入ったらもう怒られるよ」
 夏は炎天下の外の方が涼しいくらいだし、冬は日が落ちた途端に息が白くなりそうに寒くなる。
「そうでもないよ」
「なんか、変わってるね。かわいい女の子にほめられたら、普通うれしいものでしょ」
「え? ああ、そうなんだ」
 かわいい。顔を見れば確かにかわいいかもしれないが、彼女の方が僕より背が高いせいで、自然と見えるのは首の高さだ。
 それにしても、誰でも心のどこかで自分はもっとできるとか、賢いとか思っているものだけれど、この女子はそれが強いみたいだ。
「ただいま」
 姉の声が聞こえてきた。
「お帰りなさい」
 彼女が答えると、足音が早くなった。
「まーくん、お友達なの」
 はしゃいでいる姉の声が聞こえてきた。
「そうです。友達です」
 自分より先に女子が答えた。
 カーテンをくぐって姉が姿を見せた。 
 こざっぱりとした白いシャツに、ジーンズ。一本にまとめて背中にたれている髪はとても長いのが見て分かる。
 女子は黙って姉を見ていた。その顔はこわばっていて、隠しているが、驚いているのが分かる。
「はじめまして。真麒の姉の麟です。あの、見覚えがあるんだけど、どこかであったことあったかしら」
「いいえ、初対面です。私、鳥谷部花珠(とりやべかじゅ)です」
 彼女は急に礼儀正しくなって頭を下げた。
「クラスメイト、あ、もう統合して新しい学校になるんだから、古い学校の時のクラスメイトかしら」
「いえ。新学期が始まったら転校してくる予定です。今日は、一人でヒマにしていたら、真麒くんが声をかけてくれて案内してくれました」
「そうなの。よかったわ。真麒くんはあまり人といないから」
「姉さん」
 非難を込めていったのが通じたのか、姉は苦笑いを浮かべた。
「ごめんね、おじゃまして。じゃあ、花珠さん、同じクラスになるか分からないけど麟と仲良くしてあげてくださいね」
「はい、麟さん」
 姉は軽く頭を下げてから、宿直室に向かっていった。その足取りがスキップをしている。余程、この子を気に入ったのだろう。
「気に入られてたね」
「そうじゃなくて、真麒くんが、友達といるのが嬉しいんだよ、お姉さん」
「そうなのかな」
「そうにきまってるじゃない」
 鳥谷部花珠はそういって笑った。
「はい、笑顔、笑顔。顔だけでも笑っていると楽しくなるんだって」
 信じられない事だ。そう思っていると女子が頬に手を突っ込んできた。力任せに口元を引っ張った。
「笑顔、笑顔」
 笑いにはならないが久しぶりにするそれは冗談ではすまないほどに痛くて、どれだけ笑っていないか分かる。
「楽しくなってきた?」
 そういわれると痛いだけなのに、嘘みたいだが楽しくなってきた。
「楽しくなってきたでしょ」
 頷くと彼女はにっと笑った。
「真麒くん、麦茶とお菓子を用意したから、真麒くん」
 
「ばてないよ。私、強いんだから」
 鳥谷部花珠はそう言って歩いていく。初めてあってから数日過ぎてからの事だ。
 漂着物集めをしているといつの間にか鳥谷部が寄ってきて、家に戻って姉さんの出す麦茶を飲むのは日課になっていた。
 その帰り道。四月だというのに随分と暑い日だった。風もないせいで、何か空気がよどんでいるようだ。だから、帽子を被るのを勧めると首を振って、否定した。
 そう言った鳥谷部は、ぐったりとなって倉庫の一角に転がっていた
「この辺りの日差しは結構強いんだ」
「私の住んでいた辺りも日差し強かったんだけどな、何か質が違う感じがする」
「前どこにすんでたの?」
「広島」
「そっちの方が暑そうだけど」
「ああ空気がね違う感じなの。こっちみたいに光化学スモッグとかないから」
 鳥谷部は立ち上がった。
「そろそろだ」
 姉の足音が聞こえてきた。手には麦茶の入ったグラスとお盆が見える。
「まってました」
 鳥谷部は元気良く立ち上がると姉の盆からコップをとった。
「ねえ、花珠ちゃんは鳥谷部一樹さんの親類なの」
「姪です。母が一樹兄さんの姉なんです」
「だから最初に会った時にどこかでみたことあるって思ったのね」
「お兄さんと知り合いですか?」
「中学で部活が一緒だったの。二人とも美術部で、今でも絵を描いている?」
「いえ。なんか、そういうのは祖父が嫌うので」
「そうなの。あなたは、花さんの娘さんになるのかしら」
「そうです。母です」
「花さんは元気にしてらっしゃる? 私、あなたのおかあさまやおとうさまに絵を教えて貰ったことがあるの。お二人とも美大生だったわよね」
「亡くなりました」
「ごめんなさい」
「気にしないでください」
 鳥谷部は元気そうだが、姉は寂しそうだった。
「ただ、こっそり絵は描いているみたいですよ」
「どうもありがとうね。じゃあ、まーくん、私、学校にいくから」
「わかったありがとう」
「今から学校なの?」
「夜間高校に通っているんだ。県立の桜高の」
「麦茶も飲んだし、そろそろ帰る」
 鳥谷部はどこか逃げるように背を向けた。途中で立ち止まると、振り返った。
「学校始まるまで忙しいからこられないかも」


 鳥谷部が言葉通り姿を見せなくなって数日。新しい学校が始まった。
 新しい学年にあがると不安と希望がない交ぜになっているものだが、今回はさらに大きい。今までいっていた学校が老朽化したことと、生徒のバランスが地域で悪くなったので、小学校の統廃合が行われた。
 六年三組。それが自分のクラスだった。三組の何となく前の学校の並びでグループができつつあった。一学年では前は四つだったクラスのが、七はあるので、クラスメイトのうち知っている顔は数人だ。それを見て少し安心する。そのメンツは数年前に出来たマンションの人間で、去年引っ越してきた。クラスで何があっても、自分に影響がなければ関心がないようだったからだ。
「おはよう」
 声をかけてきたのは鳥谷部だったから小さい声でいう。
「関わると、巻き添えくらうかもしれないから、話しかけない方がいい」
 鳥谷部は鼻で笑い、「好きにするから」。そういって、大きな声で、僕の名を呼んだ。
「真麒くん、よろしくね」
 鳥谷部に向かって視線が集まった。それは自分にもだ。
「なんで、名前で呼ぶんだよ」
「だって名字しらないから」
 鳥谷部は当たり前のようにいうと、そのまま姉の事を中心に話し始めたが頭に入らなかった。
 前の学年でいじめられた人間は、次の年も続く事が多い。結局は、群れの中で弱った生き物から襲われるのと一緒で、弱い人間は目立つのだ。
 給食が終わると、早速中あてに誘われた。
 グラウンドでは学年ごとにいくつものグループで陣取りをしていて遊んでいた。
 中あてはドッチボールを簡単にしたような遊びで、四角形を描き、何人か鬼を決める。鬼は四角形の外、他のみんなは中に入りゲームを始める。鬼はボールを投げるか転がすかして、中の人を当てる。当てられたら外に出て鬼になる。誰が勝者になるか決めておかないと後が大変になる遊びだ。
 早めに当たって出ようとしたがそうはならずに残され始めた。最初は二人しかいなかった鬼が十人近くになっている。気づけば残っているのは二人だけだった。
 しかし、もう一人の方は意図的なのか、全く狙われる事はなかった。
 こっちに投げつけるボールは早い。どうにかあたらないようにしているけれど、気づけば息があがっていた。給食を食べてすぐということもあって、お腹が痛い。これじゃだめだ。あたるなりしてアウトにならないと。
 そう思った時に顔を狙うようにしてボールが投げつけられた。どうにか防いで、鬼に向かいボールを投げ返す。
「遊びなんだからまじめにやろうぜ」
「がんばれよ」
「やれやれ」
 そういうと周りが声をあげる。正論だ。
 少しでも素早く動けるように中腰になる。やる気を見せたのにもかかわらず笑っているような声がするが、気にしないように自分に言い聞かす。
 緊張しているせいか吐きそうなのを我慢して向かい合っていた。
 そうしているうちに周りの表情が嘲笑なのに気づいてしまった。外の鬼のうち何人かは意図して、ぎりぎりで交わせるようにして投げていることに。これはダメだ。用は自分を走り回らして楽しんでいるだけなのだ。
 鋭い一球が肩を掠めていった。投げたのは、鳥谷部だった。
「はいアウトね」
 負けたのだが心は安堵していた。
「女子なのに、なんでいつの間に入ってんだ」
「女子だけど、あんた達よりは男らしいよ。何、これ。中に二人だけ残して一人狙うなんて、あからさますぎるでしょ」
「なんだよ、このトリナベが」
 そういったのは後藤だった。そしてその言葉を聞いてグラウンドが静まりかえった。
 驚くほどの静けさだった。
「お前か呼んだのは?」
 小学生とは思えない低い落ち着いた声だった。胸に銀のホイッスルを持った、がっしりとした体つきをしたよく日焼けした小柄な男子が立っていた。その背後には多くの五年生が壁のようになって控えている。
「誰だ、お前」
「ダメだって」
 思わず声をかけていた。その少年。鳥谷部大樹、通称大将は危ないのだ。
 小学校三年の時にあった『トリナベ事件』。当時二年生だった鳥谷部大樹を『トリナベ』といってからかった六年生が翌日、校庭の朝礼台の上に縄で縛られ、転がされていた。トリナベ=水炊きと言われた腹いせか、白濁したスープの代わりに水に溶かした石灰をまぶされて。
「名前教えろよ」
 大将がいうと、後藤はいった。
「トリナベっていって何が悪い? それに何だ、お前五年生のくせに、六年に向かって意見するのか?」
「まあ、いいや。どうも、俺が怒っているのが分かってないみたいだからな」
 大将は後藤の胸を掴んだ。
「名前は」
「離せよ」
 後藤は抵抗しているようだが、大将の手はがっしりと鉤爪のように男子を掴んで離さない。
 暴れるだけ暴れると目の前で後藤は膝をついている。振り解けないだけで人間はこれだけ疲れていくのが初めて分かった。
「先輩、名前は?」
「後藤恭祐だ」
「後藤先輩は、俺の事知らないみたいだから、教えといてやる。俺は五年六組の鳥谷部大樹。あいつらには大将と呼ばれている」
 校庭を大将は見回した。
「そして名前には誇りをもっている。今度今みたいな事いったら海に投げ込んで魚のエサにするからな」
「乱暴にしないの」
 鳥谷部が大将の横に立ってきつい声でいう。大将は手を離すと後藤はそのまま座り込んだ。
「お前がバカにされるように弱いのが悪い」
 大将は鳥谷部に向かい吐き捨てるようにいうとそのまま背を向けた。
「大樹」
 鳥谷部が呼んでも大将は背を向けたままだった。
 
 放課後、急いでクラスを飛び出した。
 昼の事が尾を引いていてクラスの雰囲気が悪かったからだ。そのいらつきがこっちに向いてはたまらないと言うことだ。
 学校から十分あまり走って、足を緩めた。家に近いこの辺りは工場地帯で、倉庫が多く、トラックの往来は多いが人の姿はない。そこで安心して歩き始めた。
 新しい学校で、今まではなかったような騒ぎが起こるかもしれないと思えた。昔から桜市に住んでいるものからすれば、鳥谷部という名前はどこか怖いモノをもってしられている。それは大将一人のせいではない。桜の町を歩いていれば、鳥谷部という名前はよく見かける。あからさまに鳥谷部とついているのは建設会社くらいだが、バードビルとか、ペンギン屋とか、鳥絡みの名前を持った店の多くは鳥谷部一族のものだという。だから、鳥谷部の名前を持つ人間には関わらないようにしているものもいるが、反面すり寄っていく人間も多い。何かあれば、そこの子供は鳥谷部の子供には逆らわないように言われる。
 背中を叩かれた。転がるようにして逃げると、背中の方で笑い声がした。振り返れば鳥谷部が立っていた。
「どうしたの、そんなに急いで」
「気をつけた方がいい。君も巻き込まれる」
 鳥谷部は笑いをこらえている。
多分、鳥谷部にはいじめられる深刻さとか分かっていないのだろう。
「子供同士だしだいじょうぶだよ」
「そんなことはない。さっき助けてくれたけど大将、鳥谷部大樹だって昔、上級生を酷い目にあわせたっていうし」
「大樹は悪い奴じゃないよ。ちょっと乱暴だけどね」
「詳しいんだね」
「いとこなんだ大樹」
 そう鳥谷部は事も無げにいった。
「そういうことか」
 いくら大将といっても、いきなり他学年の様子まで分かるのはおかしいと思っていたが、それとなくいとこの鳥谷部の事を見ていたのかもしれない。
「あまり目の前でウワサされるのは好きじゃねえな」
 鳥谷部の向こうには大将が立っていた。
「大将」
 思わず声をあげた。
「お前さっきのざまはなんだ。オンナに助けられてみっともねえな」
「すいません」
 とにかく怒りを収めて貰おうと謝ると、大将は鼻で笑った。
「別に謝って貰いたいわけじゃねえ」
「あのね、大樹は、あなたのコレクションを見たいんだって」
「え」
 鳥谷部には口止めをしておいていたわけではなかった。
「なんで」
「ごめん」
 鳥谷部は小さく頭を下げる。
「花珠をいじめないでくれ。俺が、ゆすったんだ」
「ゆする?」
「ほら、あの浮き球。あれ、家から持ち出すのを大樹に見られていて」
 うまい話には裏があるという。今回もその例に漏れないようだった。
「分かった。連れてくよ」

 倉庫の陳列棚を見ると、大将は初めて鳥谷部を連れてきた時と同じように顔を近づけてまじまじとみている。
 強面と思っているが、こうやって好奇心を持って見ているのは、自分と同じようでちょっと意外だった。
「欲しいなこれ」
「そう思うでしょ。でもね、何かと交換って決まりだから、それなりのお宝を持ってこないとダメよね、真麒くん」
「ああ、でもダメなものはダメだよ」
 答えてから鳥谷部がまだ何も選んでないのを思い出した。
 選んでいる時、姉がきて、それっきりになってしまったのだ。
「今日は、お姉さんは?」
「もう帰ってくると思うけど」
 そういっていると足音がした。姿を見せたのはやはり姉だった。
「今日はお友達がもう一人いるのね。いらっしゃい、えっと?」
「鳥谷部大樹です」
 大樹は大声で言った。あの低い声ではない溌剌とした声だ。
「大樹も男の子だね」
 からかうように鳥谷部はいった。
「変な事言うなよ」
 姉は持ってきた麦茶を置いて、「もう一人分用意してくるから」。そういって去っていった。
「花珠、あの人って土蔵の絵の人だよな」
「やっぱりそう思う?」
「土蔵」
 そう聞くと二人はそっくりな顔で、口笛を吹いた。
「何だそれ」
「今日は漂着物探しいかないの?」
 鳥谷部はいった。
「いや」
 鳥谷部は今更しょうがないが誰かについてこられるのは嫌だった。静かな空間が好きなのだ。
「いこうよ」
 鳥谷部はこちらの考えもしらないでのんきにいう。
「分かったよ」
「俺帰るわ。そろそろ先生が来る時間だ」
「先生」
「かてきょだよ」
 大将は走り出していった。
「じゃあいこう」

 今日の海岸はどこかの川から流れ込んだらしい桜の花びらが流れ着いていた。既に川や海にさらされたせいで汚れた花びらだが、遠目で見る分には綺麗だ。
 そんな花びらが点々とする三十分ほど探したがめぼしいものはない。
「今日は無理っぽいな」
 そういって足を止めると、鳥谷部も立ち止まると座った。
「たまには景色を見ようよ」
 つきあって座ってから、初めて一緒になって座ったことに気づいた。
漂着物を探して歩いている間は楽しいが座ってしまえばいろいろ考えてしまうのが嫌だったからだ。
「同じ海なのに違うね。私が住んでいたところは島も見えたし、向こう側に陸地も見えるしね。でもここは水平線ばかりだね」
「引っ越してきたんだ」
 たまたま自分が鳥谷部をしらないだけだと思っていた。
「どっちも去年海外でさ、船の事故で亡くなっちゃって、それでお爺ちゃんに引き取られたの。うちの親、駆け落ちしてたから、どうなるかって思ったけど、よくしてもらってるんだ」
「そうなんだ」
「でも父さんの事をひどくいうから悔しくて、それで飛び出した日に真麒くんにあったんだ。自殺でもするんじゃないかって心配で見てたんだよ」
「そんな感じだった」
 苦笑した。でも、それは違うのはしっている。人間は見たい物を見る。もし鳥谷部が楽しいなら、楽しい姿に見えたはずだ。
「いいこと思いついた。流れてくるものだけじゃなくて、育てるのはどう」
「育てる?」
「そうそう。真珠とか」
「真珠ができる貝って特別でしょ」
「お祖母ちゃんが亡くなった時、一度だけ桜にきたんだけど、その時ね、お母さんが言ってたの。
『この海で手に入れて、育て上げた真珠が、とても素晴らしくて、見ているだけで幸せになるの。母さんにも見せて上げたかったのに』
っていってた。だからとれると思うんだ」
「聞いたことないけど。ちょっとまって」
 砂を踏む音がした気がした。
 振り返れば昼間、大将ともめた後藤の姿があった。
「こんな場所があるなんてしらなかったよ」
「何の用?」
 鳥谷部は後藤をにらみつけた。
「トリナベにつきあって貰おうと思ってね」
「タイプじゃないの。ごめんなさい」
「僕も君みたいな男か女か分からないようなのは遠慮しておくよ。必要なのは君が大将のいとこだってことさ。さっきの庇い具合からいって、君がいれば大将は手出しできないわけだ」
「随分とみっともないまねをするのね」
「聞いたよ。大将っていうのは、親の威光で、学校が統合されるまで、今まで随分好き勝手してきたみたいじゃないか。でも、俺はここに長くいる事はない。だから、黙ってやられたままにはしちゃいない
「私には関係ないわ」
「関係ないわけないだろ。お前のせいで恥をかいたのに。鳥谷部っていうのは、どいつもこいつもえばりんぼなんだな。そうして、こっちが言うこと聞くと思ったら大間違いだ」
 鳥谷部は立ち上がった。
「いこう真麒」
「いかせない」
 静止の声を聞かず、鳥谷部は歩き始めた。
 姿を見せたのは十人程だった。鳥谷部に向かい数人が掴みかかった。
 一人が鼻血を吹いて殴り倒された。
「こいつグーで殴りやがった」
「そちらが分からないっていうから要望にそったんだけど」
 鳥谷部は平然と言っているように見えるが足が震えている。
 助けないと。そう思ってみたが足が動かない。
 鳥谷部はがんばっているが多勢に無勢だった。いつの間にか鳥谷部は両腕を押さえられている。
「待て」
 自分でもびっくりするくらいの大声だった。
 
「あれだけ大声出して何するかと思えば『一緒に連れていけ』、なんて」
 鳥谷部と二人で捕らえられているのは工事用のプレハブの小屋だった。中に閉じこめられ、縄で椅子に縛られていた。
「助けてくれると思ったのに」
「ごめん本当に喧嘩弱いんだ」
「大樹大丈夫かな」
 そういう鳥谷部の声は涙声だった。顔を見れば涙が流れている。それは見たこともない鳥谷部の顔。一重のきれいな目にたまっている涙はたまることなく、流れてしまっている。
「少しだけ時間をくれ」
 身体から力を抜いた。縄をかけられたときに、かかっていた分の隙間が揺るんだせいで足を自由に使えるようになった。そして足を縛る縄を外して、次は腕だった。
「どうしてそんな事できるの」
「いじめられるって大変なんだよ。縛られるくらいならいいんだけど、そのまま忘れられちゃったりするからさ」
 手の縄も外して自由になれた。そのまま鳥谷部の縄をほどく。外に出て、直ぐに大樹の姿は見つかった。
 砂浜には大樹が立っている。取り囲んでいるのは十人あまりだ。
 既に喧嘩は始まっていた。いや、リンチか。鳥谷部を人質にとられているから大将は無抵抗のままこづかれていた。
「大樹」
 駆けつけようとする鳥谷部を止める。
「僕が行く」
「さっきあれだけ震えてたのに」
「女の子が泣くのは好きじゃないんだ」
 自棄になっているわけじゃないのを示すために、小屋から持ってきておいたシャベルを見せた。
「今鳥谷部が捕まったら同じだから逃げてくれ」
 答えは聞かなかった。

 日曜の朝、のんびり眠れると思ってまどろんでいたベッドの上。揺すられて起こされた。
 姉は休みなのに中学校の制服姿。自分もベストにズボンに靴。白いのはシャツだけ。
 それから自分の荷物を姉と一緒にまとめて家を出た。待っていたかのように、影のような男たちが現れて、赤い紐で家の回りを囲っていった。その男の一人に家の鍵を渡して出て行った。
「大丈夫だから」
 そういって向かったのは火葬場だった。
 火葬場で焼かれているのは誰だろう。そう思っていると姉がいった。
「お父さんにお別れして」
 言っている意味はよく分からなかったが、泣いている姉の顔に、無性に悲しくなった。
 そしてたまらなく嫌だった。
 泣いている姉が。父が死んだ事が。何もできない自分がだ。


 あの小学校一年だった自分が声を出している。あいつが泣きやむ事はない。でも、今、鳥谷部の涙を止めることはできる。
 大きく息を吸って一気にかけだした。 
 シャベルを振り回して飛び込んだせいで、飛び退いた。これはきっと軽蔑されることだろう。いじめるものといじめられるものがあるのに、こうして何か凶器を手に持ってしまえば、先生たちからすればその瞬間、被害者と加害者は逆転する。しかし、そのおかげで大将の直ぐ横にこられた
「お前」
「鳥谷部ももう逃げたから」
 大将は笑った。
「そうか」
 その笑いは大笑に変わった。その笑いのまま、大声で叫ぶ。
「お前らの大将と、タイマンがしたい。それで終わりにしないか。それとも一対一を受けないような臆病者ばかりか?」
「それはないな」
 後藤は冷静に答える。
「この人数差で一対一なんて意味がない。数に勝るものはない」
「そりゃそうだな」
 大将はホイッスルを一気に鳴らした。
 その音は浜に響き渡った。それに呼応するように多くの人影が姿を見せる。
「一人で来たんじゃないの?」
「あいつらには三十分は遅れてくるようにいっておいたけどな。あんたがこいつらの親分だろ? お前がタイマンを受ければ他の連中は見逃してやる」
「わかった」
 後藤は決心したようで身構えた。
「さあ始めようぜ」
 タイマンが始まった。
 大将がいきなり近づくと頭突きをかました。それであっさりと終わりだった。既に立っているのがやっとと思われたが、それでも後藤は挑もうとする。
 歓声が遠巻きにあがった。
「あんたやるな」
 その後藤の腹を容赦なく大将は殴る。後藤は前のめりになって、大将によりかかるように倒れた。
「まだやるやついるか? これから先意趣返しとかしないんなら見逃してやる」
「わかった」
 数は絶対だった。
「みんな解散だ。こいつも連れてけよ」
 誰もがいなくなるまで大将と二人立っていた。鳥谷部が姿を見せる。
「大樹だいじょうぶ」
「当たり前だ」
 大樹は座り込んだ。
「しかし疲れた。少し寝る」
 寝ると言うより意識を失ったように大樹は目を開かなくなった。
「大樹」
 鳥谷部の声にも答えない。


 数日後の放課後、家に帰ると鳥谷部が待っていた。
「こんにちは」
 一人ではなく大人が一緒だ。
「鳥谷部一樹です。花珠と大樹の叔父です」
 初めて会うはずなのに一樹さんはどこか懐かしかった。
 鳥谷部も大将も眉が太くどちらかといえば男性的だが、一樹さんは目つきこそ同じだが、女性的な優しい面立ちだ。でも、首から下の体つきは男らしくがっしりとしている。その手にはケーキ屋さんのものらしい紙袋がある。
「漂着物見せて貰っていたよ。随分高価なものもあるんだね」
「そうなんですか」
 自分の集めているものに金銭的な価値があるとは思わなかった。
「昨日は二人がお世話になったようでどうもありがとう」
「今日もお友達がいるの?」
 姉が入ってくるとそのまま固まった。朗らかな姉がこういう顔をするのは珍しい。
「鳥谷部くん」
「久しぶりだね」
 一樹さんは懐かしい様子で目を細めている。
「話すのは卒業以来だ」
「ああ、飲み物持ってくるわね」
 姉はそういって出て行った。鳥谷部はそれを見て、何か考えているところがあるようだ。
「これお土産です。じゃあ、僕はそろそろ」 
 一樹さんは紙袋を置いて出て行った。入れ替わるように姉が戻ってくる。
「これ貰った」
 一樹さんの置いていった紙袋を見せる。中身を見ると、姉は笑顔を浮かべた。
「あいかわらず好きなんだな」
「シュガーシャックのプリンいつも買ってきます。麟さん、一樹さんと随分お久しぶりのようですね」
「中学で部活が一緒だったの」 
 昔、僕が小さかった頃、姉の回りにはたくさん友達がいた。その頃今はなくなってしまった家に一樹さんも来たのかもしれない。
「何部ですか?」
「美術部」
「本当ですか?」
「鳥谷部君、とても絵がうまくて。お姉さんに子供の頃から教わっていたせいだと思うんだけど、一年の時から賞をとっていたのよ。私も分からないことあったら花さんに、あなたのお母さんに教えて貰ったわ。美大生だったから何でもしっているし、絵もうまくて」
「なんか家だと絵の話題とか禁句な感じです」
「それなら今はもう描いてないの」
 姉の問いに、鳥谷部は首を縦に振った。
「でも蔵の中にいろいろありますよ。捨ててはいないみたいです」
 そこまでいって鳥谷部は急に声を高くした。
「そうそう。真珠養殖計画なんだけど、いつからしようか」
「本当にするの?」
「当たり前だよ。今してなくても、昔してたんなら、家の蔵に使えそうなものたくさんあるから見にこない」
 あれから調べたのだが、どうも桜で真珠がとれたという話はない。
「大樹もお見舞いしてあげれば喜ぶよ」
「分かった」

 鳥谷部の家は丘の上にあった。松林を抜けて見えてきた家は平屋の立派な家で、庭も広いから、まるでどこかの神社や寺のようだ。
「大樹の部屋はこっちなの」
 玄関ではなく、庭の方に鳥谷部は歩いていく。庭を少し歩くと縁側が見えた。
「こっちこっち」
 ほとんどの部屋の障子は閉められていたが、一つ部屋だけは開いていた。
 畳敷きの八畳程の部屋で、部屋の立派さに比べて安っぽい学習机が置いてある。壁には、和服を身につけた壮年の男の肖像画が飾られいる。男は一目で鳥谷部や大将の血縁者なのがわかる。そして自分もその名前を知っていた。
 鳥谷部弘樹。鳥谷部の大人(うし)と呼ばれる、一族で最も偉いとされる人間で、式典では必ず見かける顔だ。
その部屋の真ん中にひかれた布団の上で、うつ伏せになって大将はマンガを読んでいた。
「大樹調子はどう?」
 大将はマンガを瞬時に枕の下に隠した。
「平気だよ。ああ、お前も来てくれたのか」
 大将は笑顔を浮かべる。
「母さんにいえば何か出してくれると思うぞ」
「ちょっといってくる」
 鳥谷部は家の奥に向かっていった。大将は身体を起こした。
「座れよ」
 勝手に部屋に入るのも気が引けて、縁側に腰掛けた。
「おまえ」
 大将は厳しい顔になって何か言いかけたがそれも一瞬で今は笑顔だ。
「見直した。あの中に飛び込んでくるとは思わなかった」
「鳥谷部が泣いてたから」
 泣く女の人は嫌いだ。父親が亡くなった時の姉を思い出して、胸の中がざわざわする。
「理由はいいんだ。行動だよ。お前、仲間にならないか?」
「仲間」
「お前、前の学校の時どこにもついてなかったって聞いたぜ。だからああいうつまらない奴にひっかかる」
「そういうの止した方がいい。今回のも、大将が挑発したから話が大きくなったんだ」
「なめられてるのに放っておけっていうのか」
「自分たちの力を自覚した方がいい」
 鳥谷部という名前がどれだけの力を持つのか考えて欲しかった。
「大将の仲間にはなれない」
「何でだ。俺はそんなにダメな大将か?」
 そういう大将はいつものように強い目でこっちを見てこない。
「そうじゃない。鳥谷部の為にああしていた大将はすごいと思う」
「じゃあどうして」
 壁の絵を指さした。
「僕の家は鳥谷部の大人、君の祖父に逆らって潰された家なんだよ。商売をできなくされて」
「祖父さんは海の男だ。そんなまねはしない」
 大将は、いや、満ちているものは、満ちている間は、無いものを知ることはないのだ。昔の僕もそうだった。
「全部じゃないかもしれない。でもね、意向を受けて、動く人間はたくさんいるんだよ」
「さっさと出ていけ」
 大将は僕を見た。その目は怒っているのか血走っていた。

 部屋を出て外を歩いていると、鳥谷部が追いかけてくる。
「大樹怒らしちゃったんだね」
「うん」
「許してあげて。あの子にとってはみんな当たり前なんだよ」
「ああ」
 鳥谷部が不安そうだったから、精一杯いい笑顔をした。
「大樹は悪い奴じゃないんだけど、ああいうのを当たり前だと思って育ってきたから」
 庭を抜けていくと、あまり手入れされていない一角にでる。足下は海の砂のようにさらさらしていて時折貝殻も落ちている。
「裏にあるの」
 平屋の家の裏に回ると地面の様子が変わった。浜のようなさらさらした砂に変わり、時折貝殻も転がっている。
「ここ」
 蔵ももともとは白かったらしいが今では灰に近い色になっている。鏝絵と呼ばれる漆喰を固めて造形した○に鳥が描かれている。
 鉄でできた蔵の戸を開けると中には雑多に物が置かれている。多くは場所があるから置いてあるだけの不要物にみえる。この蔵で一番価値があるのはもしかしたら蔵かもしれない。
「こっちにあるんだ」
 鳥谷部の見つけてきたものはもともと漁で使われていたような網や縄。大小の浮き玉。
「これにつけて海の中に沈めて育てればいいんじゃないかなって」
「ちょっと難しいんじゃないかな」
「そうかな」
「海岸は整備されているけど水はそんなに綺麗じゃないからね」
「痛っ」
 その声がすると共に鳥谷部の方で物が崩れた。
「だいじょうぶ?」
「最近背が伸びたから偶に上の方の感覚がわからないんだよ」
「使えそうなのある」
 蓋の開いてしまった長持ちの中に姉がいた。
 それはスケッチブックだった。紙に描かれた姉は今よりもまだ若く、幼いといっていい顔だった。
「これ」
「やっぱり麟さんだね」
「誰が」
 スケッチブックを手にとった。何枚もの姉の姿が勢いがある美しい線で描かれている。ほとんどが姉一人でしめられていた。他にも数冊のスケッチブックがあった。
 呼んでいる声がした。
「飲み物持ってきたぞ」
 一樹さんの声だった。
 鳥谷部は僕の手を引っ張って歩き出した。
「いたいた。飲み物頼んでおいて、勝手に出ちゃダメじゃないか。義姉さんが、困ってたぞ」
「一樹にいさん、このスケッチブックってお父さんとかお母さんが描いたの」
 一樹さんは慌てて手を伸ばした。スケッチブックは一樹さんの手に戻った。
「まだあったんだな」
 その声は懐かしく、そして哀しかった。
「もう捨てられたと思っていた」
「お祖父ちゃん、絵、嫌いですよね」
「嫌いじゃないよ。姉さん、花珠の母さんがいた頃、モデルになっていたくらいだから。今はちょっと飽きただけだよ」
 それは本当とは思えなかった。
「もしかしてお爺ちゃんが絵を嫌いなのは、私を身ごもったせいでお母さんが駆け落ちしたから?」
 一樹さんは答えなかったが、それは肯定のように思えた。
「真麒くんだけじゃないんだ。私のせいで一樹さんも。好きなことできなくなっちゃったんだ」
 鳥谷部は駆けだした。

 走り出した鳥谷部を捕まえる事はできなかった。それでも何となくあたりをつけて走って追いかける。
 見つけたのは砂丘だった。最初に出会った場所で座り海を見て座り込んでいた。
 その横に座ると鳥谷部は顔を上げた。
「鳥谷部っていうのは人を不幸にするのかな。一樹さんだけのことじゃないんだ。さっき聞こえちゃったんだ。真麒くんの家の事。おじいちゃんのせいだって。」
 鳥谷部は泣いていた。
「親の話だよ。もう僕には関係ない」
 できるだけ普通に話してみた。鳥谷部は小さく頷いた。
「そういってもらえると少し楽になるよ」
 鳥谷部は小さな笑みを浮かべた。
「何か頭がぐしゃぐしゃになっちゃってて。お父さんとお母さん駆け落ちしたの、私のせいなの。私ができちゃったんだけど、お母さんには婚約者がいて、結婚するのを許してもらえなくて駆け落ちしたの。もし鳥谷部じゃなくて普通の家の子だったら、きっと駆け落ちなんかしなくて、海で事故にあうこともなかったんだ」
「泣かないで」
 鳥谷部の涙を指で拭いた。でも、鳥谷部は泣きやむことはない。そうじゃない。きっと彼女はずっと泣いていたのだ。
 綺麗な涙は真珠のようだ。
「ねえ、真珠はもうあるんじゃないの」
「?」
「鳥谷部だよ」
「『この海で手に入れて、育て上げた真珠が、とても素晴らしくて、見ているだけで幸せになるの。母さんにも見せて上げたかったのに』
それは君の事なんだよ。二人が結ばれて生まれた」
 鳥谷部は自分の口の端に指を差して、笑い顔を作った。
 雪の白さを持った歯が真珠のように見えた。
posted by 作者 at 19:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 短編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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